神ってる話
神ってる。
という言葉が2016年流行語大賞に選ばれたことがもはや遠い過去のようです。
プロ野球はあまり見ない(そもそもあまりテレビを見ない)ので、遠いっつうか、時事問題の1つとして記憶したという能動的な情報の取得であったから、用済みになって忘れかけているのかもしれません。
どちらにせよ、神という存在が何だか親しい距離に近付いたような気がして、少し得をした気分ですね。
人間は理解不能な偉大なものを人間なりに理解しようとして「神」という空想を作り上げました。
おっと、振り上げた言葉の拳を納めてください。
あくまでも科学的で純物理的な問題としての、「神」という空想、という話です。
信仰を侵そうとしているわけではありません。
人間は神という名を与えることで、様々な理解不能な事象に対して説明を試みました。
幻聴が聞こえれば神の声。
雷が轟けば神の怒り。
豊作になれば神の恵み。
人間の力の及ばないものに対して、神を形容詞のように用いているのです。
悪事を犯した人に不幸があると、天罰だという表現を用います。
天とはお天道様≒神であり、これもまた神の与えた罰だという意味です。
天とは雨を降らせて農作物に恵みを齎し、また大雨で洪水を起こして命を奪う、絶対的で、そして気まぐれな存在でした。
もちろん、天、より詳細に言い換えれば天候は、地球上の気圧、湿度、大気温度、海面温度、地面温度などの複合要素によって成り立ち、そしてその要素さえ把握してしまえばスーパーコンピュータで予測可能なものです。
日々天気予報の恩恵に与っている身としては、高度技術に感謝しかありませんね。
このように手の届かない存在・事象を、人は神と讃え、畏れ、敬うのです。
時に、神が我々に怒りを覚えるように(そしてしばしばそれを地上に落とすように)、我々は神に怒りを覚えます。
努力が報われなかったとき、不幸に襲われたとき、その他思い通りにならなかったとき。
神の怒りに我々が「そんな無茶苦茶な…」と思うように、神もまた我々の怒りに「そんな無茶苦茶な…」と思うことでしょう。
お互い様ですね。
しかし、神は我々の努力を無視しているわけでも、努力が無駄になるわけでもないのです。
神は必ず努力を見ています。
これは私の信仰の問題でもあり、また精神衛生上の話でもあります。
努力とは、人が及ばざるものに手を伸ばすときにする背伸びのことです。
それを辞めたとき、人は家畜に成り下がります。
この世は弱肉強食なのに、弱いままでいるということは、それ即ち肉であることを許容したことになるからです。
もし何らかの資格試験に合格するために努力して、それが報われなかったとしたら、すべては無駄でしょうか。
あなたが得ようとした資格についての知識は、ただ資格試験に合格しなかっただけで、まるで記憶を消去されたかのように無くなってしまうのでしょうか。
それは違います。
今は駄目でも、次の試験があります。
次の試験が無くとも、蓄えた知識はいずれどこかで活かすことができます。
例えば「数学なんて社会に出て何に役立つのか」というセリフを誰もが耳にしたことがあるのではないでしょうか。
あるいは、口にしたか。
数学の知識は、学校の試験だけで利用するわけではありません。
入社試験のSPI試験を始めとして、数学を用いる試験は多数存在します。
社会人になって就職し、会社から「○○という資格を取得するように」と言われ、「えっ数学あるん!?」と数学の分野で苦渋を飲まされたことがある人は、星の数ほどいます。
また、数学的思考能力は、代数という概念を代名詞として語学能力に利用し、読解力を高めることにも繋がります。
おっと、気が付けば現実的なことしか言ってねえ。
ここがどういうブログかを忘れるところでした。
オカルト方面行ってみよー!!
とある結社の話に、弟子たちに農作物を作らせ、それが野生動物(イノシシとか)に荒らされるのを黙って見させたという逸話があります。
これは、努力が直接的に報われないこと、そして努力は完全に無駄にはならないということを教えるためと言われています。
一度農作物を植えたのなら、そのノウハウは必ずその身についているし、また考え方・視点を変えるのならイノシシは神の遣いで、彼らの農作物は神へと還ったのだということにもなります。
カエサルのものはカエサルに。
自然の恵みは自然に。
というわけですね。
万象に無駄はなく、積み重ねたものは積み重ねたこと自体に意味が生まれるのです。
落ち葉が重なって腐葉土となり、大地を富ませるように。
とはいえムカつくものはムカつくので、それはそれは大いなる存在である神の大きな大きな胸を借りるつもりで天に叫んどきましょう。
バカヤローーーーーー!!!と
(近所迷惑にならない程度で)
平成29年10月29日午後7時30分