読んでますって言われたのに更新しねえっておかしいだろそれよぉ!?
現在、ツイッターは基本的に自分のタルパが使っているが、偶然にもこちらのブログを知って読んでいただける機会があった。
その際に言われたのが、要約すると「読みやすいけど何を言ってるのかはわからない」というものだった。
そりゃもう私はショックだったよね。
いや、しゃあないんよ。
ワイ、ちゃんとしたところ(オカルトにちゃんとしたもクソもあるかどうかはさておき)で学んだ人やないからどこから話せばいいかを学んでないわけやし。
っつうわけで、タルパーさん向けに知っといたほうがいいことを書いてみたらええかなって思ったんよ。
思ったけど、そんな入門書みたいなのは書かんのよ。
ちょうど今、タルパのツイッターで「本物のタルパ」が話題なんで、そっちをやりまスゥー
思えば「本物のタルパ」とかなんとかは馬鹿な話である。
元ネタとされるチベット仏教のトゥルパ自体、ネットタルパ(以降文中においてネットタルパをタルパと称する)とは異なる語の用法をされている。
チベット魔法の書において、トゥルパは想念の凝結による化現であるとされている(p131-132らへん)。
この本には、著者が僧侶のトゥルパを作って消す話や、過度に集中して絵を描いた者が知らずにトゥルパを作っていた話などが紹介されている(最後の方にちょびっとだけ)。
上記に紹介した本に、引用として紹介されている話がある。
簡潔にあらわすと以下のようになる。
旅人がフェルト製の帽子を藪に落とした。
帽子は形がすっかり崩れてしまった。
その帽子を見た臆病な男が大慌てで逃げ帰り「何か妙なものを見た」と他の村人たちに話した。
他の旅人たちも同じ場所で訳の分からないものを見たと話した。
帽子はさらに雨風に晒されて奇怪な形に変化した。
さらにしばらく経って、近くの村中で藪に潜む悪魔について噂されるようになった。
そしてついにはそのボロ帽子が動くのを目撃した者が現れ、生い茂る藪から飛び上がって逃げ惑う旅人たちを追い回した。
帽子は、そこに集中された沢山の人の念によって動かされたのである。
強固な想念、それも複数の想念が現実に影響を及ぼす一例である。
このように、チベット仏教では唯識的な、想念によって世界に影響を及ぼす法というものが信じられている。
信じられているっつうか、「それがある」という前提でタルパとかも話しているので、そういうことにして話を進めたい。
このトゥルパも、最初は自分にしか見えないし、現実に影響を及ぼすこともできないが、強力になるにしたがって、他者にも見えたりするのである。
上に紹介した引用のように、強力な想念が他者の想念に影響を及ぼしているのだ。
チベット仏教においての物の考え方を端的に表した話も、師が弟子に問いかけるものとして、そこで紹介されている。
「旗が揺れている。では何が揺れているのか?旗か、それとも風か?」
旗が揺れているのでも、風が揺れているのでもない、が答えである。揺れているのは心である。
(中略)
彼らが経験している動きの知覚は風によるものでも、旗によるものでもなく、自分の中にある何かによるものである、と説いた。
さて、この言葉を現代人に理解させるためには、錯視画像を見せるのが良い。
上が短く、下を長く見せているのは、見る者の心(脳)である。
まず断っておくが、いくら「いや、俺には同じに見えるけど?」とイキったところで意味はない。
上が短く、下が長く見えるのは人類が進化の過程で獲得した機能であるから、従ってそう見えない者は機能不全であると言えるのだから。
どうしたって目に見えるものは、眼球が物理的(光学的)に捉えているものだとしても、それを処理するのは脳であり、心であり、意識である。
写真で撮ったものも、ビデオで撮ったものも、最後に我々が知覚できるのは、どうやっても脳であり、心であり、意識である。
故に、この世を構成しているのは意識のみである。
仏教では唯識と呼ばれる。
似たような結論に辿り着いた者が、「我思う、故に我あり」と言ったし、また別の者はそれをより厳密に「我思うと我思う、故に我ありと我思う」とするべきだと述べた。
こちらは観念論(イデアリスム)と言う。
私個人はどっちかというとグノーシス主義者だし、ネオプラトニストなのでこちらの方がしっくりくる。
むしろ反共なのでマルクスのいう唯物論的な物言いへの反動ともいうべきかもしれんけど、まあ、そういう細かいことは置いとこう。
誰が好きかって言われたらショーペンハウアーやけど。
この心の働きによって感じているのだから、心を働かせれば、つまり強い想念を持てばタルパの作成はできるわけだ。
そして最初の話題「本物のタルパ」に立ち戻ってみよう。
本物とは何だろうか。
知覚がすべて、ただ意識によるもの/唯識であるとして、本物である偽物であるという問いがどれほど愚かな問いであろうか。
そこにある結論としては、その意識が本物か偽物かという点でしかない。
そして「今思考している意識」が偽物であるわけはないので、本物である。
(※仏教的な唯識の解釈によれば全ては空であるが、ここでは適用しない)
ならば「全てのタルパは本物」なのである。
ただし、「他人が見えているタルパ」は本物だが、「他人が見えていると嘘をついているタルパ」は偽物である。
そういう意味で「本物のタルパ」と言っていたのなら、もはや判別は不能である。
識の中にしか存在しないタルパを証明する方法は、この世のどこにも存在しないのである。
言ってみれば、我々がネット上で複数のアカウントを用いることが可能な状況で、彼らがAやBという名を持って現れている以上、それはそれぞれ真であるのだ。
AさんとBさんというアカウントが同一人物によるものでも、我々はAさんとBさんを知覚することしかできないのだから、ネット上にはAさんとBさんが化現(トゥルパ)として存在するのである。
それは虚偽である真実であるという以前に、ネット視点からの唯物論的に言えば、アカウントとして存在しているのだから存在しているのだ(トートロジー)。
トートロジーが出たので今日はもうオシマイ!閉廷!