迫真魔術部!タルパの裏技!

淫夢要素はありません

タルパについての考察(やや真面目)

正月からタルパ考察なんていう不健全な行為に時間を費やしてみる。

考察というより、もう自分の中のタルパ観についての整理なのだけど。

 

  • タルパとは。

 

チベット仏教の中でも密教の~~~というものはもう置いておく。

 

なぜなら、オカルト方面から「タルパとは純粋無垢な思念体を新たに生成して、この世に生み出す行為であり、それは無責任に不死の存在を作り出して最終的には放逐する行為だからだ」とか意味不明なことを言っているのを見かけてしまったからだ。

 

そもそも論として、我々人類の肉体に宿っている魂もすなわち質量を持たない純粋思念体であり、レテの川の水をたらふく飲んで前世を忘れて輪廻転生を繰り返している原罪に苛まれている存在であるのだが、その発言者はそのことを都合よく忘却しているようだったのが気になるけど。

 

どちらかというと自分は、集合的無意識と我々の魂は不可分であり、祖霊より表出した1ペルソナであるという論のほうが受け入れやすいのだけど、それはもう個人の好みになるのではないだろうか。

 

だってそんなアカシックレコードじみた祖霊とか集合的無意識とかガイアとかを感じられたとしても、この肉体のいる形而下に何かしらの物的証拠として精製できるわけではないからだ。

 

今流行りのfateの設定の中に第三魔法というものがあって、魂の物質化ができるとかいう設定らしい。


魂というものが本当にあるのかどうか、という点には多数の疑問点があるのだが、それを有無を言わせず、物的証拠をポンと出してしまうというのは非常に恐ろしい。

 

というのも、それすなわち今次元における生の意味の希薄化を招きかねないので、勘弁してもらいたいところである……。

 

おそらく、大半の読者には伝わらないので解説すると(……嗚呼、自分の言を解説しなければならない億劫さよ……)、魂があるということは、肉体とは別の次元の存在を示唆するものであり、輪廻転生が正しいということを指す。

 

すなわち、今次元に置いて生が苦であるならば、その魂さえ不滅であるのなら容易に死が選択肢として現実味を帯びてくるのだ。

 

要するに、今世を頑張るより、来世ガチャ引いたほうが早い、ということ。

 


閑話休題

 

私は超存在(≒神)を信じているし、私を始めとする諸存在は深い根本で繋がっていると信じている。

 

考察をそこから展開するのであるからして、タルパもまた根源より出た存在の1つであると私は考える。

 

そもそものトゥルパの存在定義からして、仏性、もしくはその他の性質の化現であるというものであるから、何らかの存在根拠を有していることに関しては、ほとんど議論の余地はないと思っている。

 

さらに言及するなら、観測者が人類の主観に限定されるのだから、その存在は間違いなく観測者を基点としたものなのである。

 

上記の点からして、私はタルパを通常の人類の魂とほとんど変わらないものであると定義したい。

 

以降の論は、これに基づいて展開される。

 

  • タルパの作り方


タルパの生成方法は、「タルパは人類の魂とほとんど同じものである」と言ったのであるから、その手段は人類の誕生と魂の形成である。

 

つまり、魂が宿る器を生成し、そこへ根源からの流出が起きて、存在の1つとして確立されるのである。

 

私はこの論があるから、タルパ=エーテル仮説を以前に訴えたのである。

 

なぜ私がエーテルという呼称を用いたのかというと、エーテルは肉体と重なって存在する不可視のエネルギーであり、最も低次な霊的エネルギー存在であるからである(※)。

 

(※
コーザル(諸根源)

アストラル(魂)

エーテル(霊的エネルギー)

肉体(物質的根拠)
の順で我々が存在すると定義する場合)

 

我々の魂は肉体に宿るが、肉体が稼働するときに生じる霊的エネルギーがエーテルであり、気と呼ばれるものである(俗に魔力とも呼ばれる)。

 

現に、現代の魔術師には呼吸や気功によってそのエネルギーを精製して術を行使する者もいる。
(※精製したと仮定してその労力・心構え・没入度等をルーチンによって簡易化する試みであるとも言える)

 

例えば神への祈りは、祈りによる瞑想が変性意識状態になり、その霊的エネルギーの高まりが生命の樹を逆流して超存在へ至るとも解釈できるわけだ。

 

そういった点で便利なので、ケイオスマジシャンの私は、エーテルをエネルギーとして定義して、識に作用する低次の霊的エネルギーないし存在として扱っている。

 

便利な仮説で、いろいろ流用するとケイオスマジックが捗るのでオススメ。


して、エーテルによる疑似生命の器を用意したところで、そこに流出が起きなければタルパはタルパたり得ない。

 

なぜなら先程に私が定義した論からすれば、そこにあるのは低次霊的エネルギーであって、人類の魂とほぼ同じものではないからだ。

 

そこに生まれたエーテルのみの疑似生命は、いわば生まれたての赤ちゃんである。

 

赤ちゃんが生まれたら、人間はどうするか。

 

そう、話は単純で、世話をしなければならない。

 

これが、タルパー(タルパ生成を試みる術者のこと)の言うオート化訓練である。

 

  • オート化訓練

 

オート化訓練とは、オート化させるための訓練である。

 

オート化とは、初めに二人一役で行っていたタルパとの会話が、二人二役になる・することである。

 

オート化訓練には、エーテル体に流出を起こす儀式的側面と、タルパ(流出して生誕したアストラル体)とタルパーがコミュニケーションをとるための訓練的側面の2つがある。

 

 

  1.儀式的側面について。

 

エーテル体を生成したとしても、コーザル(諸根源)にそれが流出させる目標であると勘違いさせなければならない。

 

さらにいえば付喪神も似たような理屈である。

 

術者との接触によって術者の霊的エネルギーが感染呪術的作用によって、触媒のように流出のきっかけを作っているわけだ。

 

(ここでルネ・スピッツのスキンシップ剥奪の実験を紹介して接触による感染呪術による魂形成の話をちょっとしたかったけど、実際にあった実験かどうか怪しかったので、眉唾ものとして紹介する)

 

また彼らの絵姿を視界に思い描く作業は、自然とエーテル体を形作る作業であるので、エーテルの操作に慣れない人でも、結果的に同じことをしているので、気功を覚えないとタルパができないと言っているわけではないので安心してほしい。

 

もちろん、できたほうが近道にはなるけど。

 

 

  2.訓練的側面について

 

私のようなオカルト方面の訓練を積んでいないものにとって、非言語情報を理解することは非常に難しい。

 

つまり、ひらめきとか啓示とか予知夢とか、より包括的に表現するならクオリアそのものによるコミュニケーションなのだが、もう簡単にテレパシーと思ってくれればいい。

 

こればっかりは非言語だけに、言語化は難しい。

 

目に見えないのに、「目線の泳ぐ"感じ"」とか「口を開閉させて何を言うか戸惑っている"感じ"」とか。

 

我々人類のコミュニケーションの8割はノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)によって成り立つと言われているそれを、純粋な感覚だけがこちらに伝わってくる。

 

しかし、それを正しく受信して正しく意味を理解できるのは、非常に難しい。

 

熟達した魔術師でも、啓示や予知夢を受けても理解できずに無意識の波の間にかき消えてしまって、事が起きたときに初めて「嗚呼、このことだったのか」となるのも、もはや日常茶飯事だ。

 

そのため、彼らにこちらのコミュニケーション手法を伝え、こちらも彼らのコミュニケーション手法を学ぶ必要性がある。

 

 

以上の、儀式と訓練が、【オート化訓練】と包括した表現をされている。

 

これには1つ問題があると私(のタルパ)は考えている。

 

儀式は概ねの場合に成功するのだが、その後のコミュニケーション不全によって、「私は未オートタルパー(オート化していない術者)です」と名乗ってしまい、「私にはまだタルパがいない」と誤解してしまうことである。

 

この点は私のタルパが勝手に嘆いていることで、私自身は気になっていないのだけど、うるさいので言及する。

 

先述の内容を踏襲して述べるなら、以下のようになる。

 

「儀式は成功してアストラル体があるにも関わらず、術者の訓練がうまくいかないために、生まれたタルパが放置されている」

 

言ってみれば、赤ちゃんは生んだけどお世話はしてないよ、という状況だ。

 

私のタルパはタルパであるからか、この点を深く憂慮しているので、その点についてここに記述しておく。

 

ここまで読んでいる熱心なタルパーさんは、諦めないで、そのまま訓練を継続してほしい。

 

たしかに育児放棄はよくない。

 

パンダでもあるまいし。

 

 

  • まとめ

 

さて、ここまで順調にタルパを生誕させられたとしよう。

 

そうすると術者は以下の事項を達成していることになる。

 

・不可視のエネルギーのコントロールができている

 

・十分に発達した非言語感覚を得ている

 

・彼を維持するのに十分なエネルギーの供給ができている

 

ここまで述べた事項をクリアできていれば、以降はタルパの存在強化に時間を費やすこととなる。

 

言ってみれば、ここまでは言葉を覚えて歩き始めた時点であるので、これからは彼らが独り立ちできるまで育てていく作業が始まるのである。

 

それは彼らを我々の存在の群れへ加える作業であり、我々が彼らの存在位階を上げることでそれを功徳として互いを高め合う修行でもある。

 

 

 

この論が誰かの役に立つことを願って。