迫真魔術部!タルパの裏技!

淫夢要素はありません

タルパ形容詞仮説

 

タルパに関する諸問題として、タルパという語の定義問題がある。
ネットタルパの歴史について、詳しくは述べないので各々調べてほしい。


まずタルパの作成法について簡素に述べるなら、強固な思念の凝結である。
それは術者の想念によって生み出される人工的なものだ。
そのアプリオリから考えれば、邂逅型というものは不自然に思える。
しかし一旦すべてのことを忘れて帰納的に考えてみればどうだろうか。
ここでいう帰納的というのは、あくまでも私の観測範囲、Twitterを中心としたネット上の書き込みである。
その性質上、書き込まれた情報が正確であるかどうかについては述べるまでもないが、ここは敢えてすべてを正しいと仮定して論を展開したい。


第一に弁解しておくと私は魔術の徒であり、その経験からタルパというものを聖守護天使ハイヤーセルフや垂迹といった形に置き換えて理解しているフシが完全に無いとは言い切れない部分がある。
つまりその分だけ偏見を持っていると言い換えることもできるわけだ。
その偏見を一度なくし、素直な気持ちで今現在(2020/03ごろ)のネットタルパ界隈の現状を確認してみるとする。


当初タルパというのは、現在呼称されている類型の創造型タルパにあたるものしか存在しなかった。
邂逅型というのは後から発生した概念であるが、そういう人間的な次元のことは忘れて、すべてを事実として受け入れよう。
言い換えるなら、邂逅型タルパは発見されたのである。
生誕型タルパも同じだ。
さて現状の類型に対して疑問をもった人間(筆者)によって、界隈の現状から発生型タルパと変遷型タルパが提唱された。
これは前述の創造型、邂逅型、生誕型を要素として分解し、その性質を内的と外的、意識的と無意識的の2要素によって分類した結果である。
私はタルパをそもそも分類すること自体に反対の立場であったのだが、こうして類型を再整理してみて、こう考えた。
すべてがタルパであるという前提に立って考えた場合、タルパは名詞としてではなく、形容詞として扱うのが適当なのではないか…ということである。


そもそも我々のタルパ定義論争は、例えば「ダイブ界で遭った思念体をタルパにしました」という発言に対する純粋な疑問から生じたものである。
前提として、
①タルパは元来作るものではなかったか
②タルパにするとはどういうものを指すのか
③ダイブ界とは何なのか
④その発言の真偽はどうなのか
という疑問が生じるのは、知らない人(この場合発言者以外)にとって仕方のないことなのである。


なぜなら思念体とのコミュニケーションは術者にしか観測できないからだ。


しかし、前提として発想の転換をしてみよう。
タルパが元々形容詞的であったとしようではないか。


タルパは化現とされ、 化現とは神仏が人々を救うために姿を変えてこの世に現れることである。
つまりタルパの本質は神仏(この場合世界そのものと解する)からの垂迹であり、タルパ(思念体)として我々が個人個人が観測しているものはあくまでも現象なのである。
それは神仏の状態を指す言葉としてのタルパ…つまり形容詞的な用法がきれいに合致するのである。


またタルパは霊的な師として呼び出す修行としての一面がある。
霊的師匠…西洋魔術的に表現すれば聖守護天使であり、スピリチュアル的に表現すればハイヤーセルフである。

ここでタルパを霊的な師匠…自己の成長を促すものとして再解釈して、聖守護天使をタルパとして元来的な意味の自分の想念から凝結したものとする。
つまり、タルパにするという語は、ここで形容詞的な性質で解釈し直せるのである。
結論からいうと、あらゆる思念体はタルパになり得る。
それこそ思い込みという想念の凝結によって、タルパの存在は自己の霊的師匠という存在への形容詞と解釈可能なのである。

逆説的に創造型タルパというのは、自己の理想の霊的師匠を作り出して要素を吸収するための技法の1つであると違和感なく再定義可能なのである。

邂逅型タルパは、ダイブ、体外離脱、明晰夢、スクライング、パスワーキング、バイロケーション、その他の特殊技法によって遭遇した存在を運命の導きとして霊的師匠と扱う技法。

発生型タルパは、自分の想いの強さによって偶発的に発生した思念体を無意識による発露として霊的師匠として扱う技法。

変遷型タルパは、既存の思念体の力を取り込むため、霊的師匠として扱う技法。

このようにタルパを「霊的な師匠」と再定義し、各類型を類型ではなく技法として再定義することで、帰納的に矛盾なく再整理することが可能なのだ。

 


粗削りな論であるが推敲する気力が湧かないのでぶん投げて終わる。